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自分という存在に対して、これまでに持ったことのない新たな視点を「中心軸」としてしっかり持っていただけるようになるための「学び」です。あなたの内なる神にであうためのお手伝いをします。

この新たな視点は、きっとあなたの人生をを明るい方向に導き続けるでしょう。

*語る編み物作家 片山カナさんの体験談を特別に後半
に綴ってあります。ご自分を愛せるようになった方の赤裸々で誠実なお話を頂けました。カナちゃん、ありがとう。愛しているよ。ヽ(^o^)丿




@現在の自分について知ること。学ぶこと。
A自分を縛るもの(思いこみ)について知ること
Bそれらを、受け入れること
Cそれらを、手放すこと

たまねぎの皮を、一枚一枚ていねいに剥がすように、こころとからだを緩めていきましょうね。


「自分を愛するための素晴らしいこれまで。そして、素晴らしいこれから・・・。」    語る編み物作家 片山カナ


朝子さんと出会って、その存在とテキストと共に、わたしがどんな旅をしたのか?これからお話しようと思います。

自分はずっと暗黒の中にいたのだと、今まさに思うので。正直なところ、よく生きてこれたなと、思うので語ります。

朝子さんに会えていなかったら、今、わたしは間違いなくここにはいません。自分の部屋で、今の自分に力を貸してくれたみんなが用意してくれた大好きな全てに囲まれている自分は無かったのです。


Cantale,Creare,Amore!
歌うように、愛するように、つくりたい。

なんて申していますがね。自分の人生についてだけは、言い澱んでいましたから。自分にとっても重かったから。

でも、他人との比較において重いと言っているわけではない。みんながそれぞれに背負う荷物に苦しんでいることも分かっているのです。

私は、自分が自分自身のこれまでを語ることによって、今この国のどこかで苦しい誰かのために、勇気をもって踏み出せる現実的第一歩となることをこころから望んでこれを書いています。

とても長くなります、きっと・・・。

私が朝子さんに出会うずっと昔のお話から始めます。

まずは、私が生きている意味があるはずだと思いながらも、現状の苦しさに自分を投げ出して諦めようとしていた話から、聞いてください。



furtuito occursu ・・・・偶然の出会い
これは、1999年、29歳の私が開設していたホームページの名前です。当時の私は精神病でした。解離性同一性障害。通称、多重人格と呼ばれる「病名」。

それは記憶が飛び、日にちや時間も認識できない、買い物ひとつすらできない。つまり社会生活ができないものを言います。

私はただ中に存在する「自分」に全く希望が持てるわけもなく、ギリギリの自殺未遂を繰り返していました。その頃の暮らしは酷いもので、家の中の物を破壊する。叫ぶ。妄想を見て、怯える様な暮らしです。

私の中には、大人しい頭の弱い自分と、怒りと恨みに満ちた頭の切れる自分が存在していました。何も持たずに外に出て、居場所も定かではない。黙って大量服薬して布団に潜る。お風呂にも入らなくなったり、ものを食することを嫌悪する自分。

このように激しい行動を繰り返す私には、強烈な薬が処方されました。本当に命を絶つことを防ぐために、監獄のような保健室に、イヤホンのコードすら凶器となりうることから全ての持ち物を取り上げられた形で「保護」されたのです。それでも、壁に頭を打ち付けて叫んでいました。

「生きていて、いったい何の価値があるんだよ!え?誰か答えてみろよ。何の意味があって、生かされてんだよ?絶対に、私なんて、もう止めてやる!離せよ、離せ!離さないなら、お前らを全員殺してやる。ぎゃはは!笑えるぜ。馬鹿馬鹿しい。殺すぞ!」

って、檻の中で叫んだかと思えば、次の瞬間には、

「どうかしました?何か・・・ありました?私は大丈夫ですから。ちょっとダルイだけです。・・・ほっといて下さい。」

と言って布団に潜っては、人を避けました。



以下は、入院直前に書いてホームページに載せていた自作の詩です。







「異肉の希望」          片山カナ


裂かれた果実の
そのぼってりした内部から流れる血の筋を眼で追い。

喉元から下腹部まで一直線に切り裂かれる戦慄

そして 私はピンと張りつめ
張り付けられた苦しみを 見るのだ
私が私を追い詰めていく様を 見るのだ

足元から上がってくる嘔吐感と汗に
消え入りそうになる果実を感じ、
ゆらめき ゆられるように



その回りを なすすべもなくめぐる 衛星のような 異肉の破片



そう 私、
私は私の中心に 届かない
その熱をはらんだ熟した内臓にさえ 届かない
あふれ出てしまう ぱっくりと割れた傷をおさえることすらも

助けて どうか 微弱な電波でも 私に届けてと
私は 待っていた

ひたすら血を流す自分を
スローモーションでながめながら

耳を澄ませ 眼に溺れて
分解する自分を じりじりと押さえつけながら
私は 這っていた めぐっていた ただひたすら

こんなにも切断された時間空間に 
ただ みじめに 投入されたまま

この苦しいさなかにも
言葉を ぷつぷつと 吐き出して死んでいく異肉


私という「生」は
こうして切断されながらの悲鳴を 言葉に残すしか術がない


真夜。
外では 犬が鳴いている

私は自分の血が流れる割れた果実を凝視して 時間が過ぎる
頭の中を繰り返す砂音金属音




真夜。外ではどこからか流れてきた食器のぶつかる涼やかな音色



私はぱっくりと割れた傷口のまわりを ひたすらにめぐる

切り裂かれた痕跡を残し

異肉の希望。




痛みを痛みとして 傷を傷として
流れる血を 自分のものとして 感じ取れることができるなら



「私」は、外部をも 見られる眼を持ち
風を感じられる統合した体を持ち

せめて 瞬間





世界を感じながら 死んでゆけるのに









これを書く直前に、私は包丁で体の数か所を切り、切り口から溢れ絨毯に染み込む血を見ながらこの詩を書いたのです。

(自分の本当の欲求を感じられないって、怖いでしょう?)


私は本当のところ、生きることを諦めたくはなかったのです。生きたかったのに、その意味が分からなくなっていたのです。自分の痛みすらも、わからなくなっていました。


この詩を書いた翌日から入院、すぐにあの「保健室」でした。


わたしは求めていたのです。
出会いたいし、伝えたかったのです。
もう限界だから、助けてくれ!生きたい!とコンピューターに書くことは出来ても、現実には人に向けて、何一つ素直に言えてはいなかった・・・・過去の自分の体験です。



その地点に至るまでも、私は痛烈な人生を歩んでいました。


親による暴力による虐待。
マスコミ業界に勤める父親とその友人からの性的虐待。
借金と見栄の家庭内事情。


母親からの罵倒。または、懇願。
「貴女の為を思っているの。」と涙を流して、私の生命をつなぐ絵や音楽を取り上げた上での勉強へのプレッシャー。


そんな家を出たい一心で、遠くの大学の理系学部に行き、禁じられていた美術にのめりこむことで自分を生かしていました。個展を開き、ニューヨークに行き、外国の若手の現代美術展に誘われもしました。・・・・しかし、自分の存在価値があやふやな当時の私は、自分の表現に自信が持てずに、参加を直前になってキャンセルしてしまいました。


自暴自棄になりました。
誰とも本心では話さないようになりました。
「常識的」から外れるのが怖い自分に出会い・・・・悔しかった。


そして自分を殺し、期待に応えるためだけの自分になり果てて。

本来、自由奔放だった私・・・なのに、過去の経験から、自分で「他人の常識」に自分を閉じ込める「習慣」に慣れ親しんでしまいました。

私は「一流ね」と言われる大学を卒業し、「真面目ね」と言われる結婚をしました。



それから二年後。

やはりそれでは苦しいと自分の人生を感じ、何かやはり作りたいと歯科技工士になりました。人に認められたいがゆえ、高度な技術を人よりも短い期間で習得し、周囲からは期待の新人だと言われて、採用の半年も前から学校の後には職場で仕事をしていたのです。

そんな私にとって、晴れての入社式。


その朝。


父親が自殺したのです。会社で昏倒しました。


自分が、崩れていく音が聞こえました。



それでも、私、仕事がしたかったです。ちょっとした不眠症だと仕事を無理矢理に続けましたが、結局、社長の「精神病者はいらない。」のひと言で、私の仕事は終わりを迎えたのです。

それから、詩にあったような日々が、始まりました。
自殺未遂を19回。

「そんなに死にたいのなら、迷惑だから・・・・ちゃんと死ね。」と言われながらも、踏み出せなかった。

本当に自殺していく他人を見送りながらも、自殺すれば楽になるとは、思えなかった。


だが、それと同じくらい、他人と生身で関わるのも、死ぬほど怖かった。

否定され続けて来たから、私は人に怯えていた。


行き着いた独りぼっちの袋小路の果てが、血の海と生命維持だけのための毎日だったのです。


それでも、

毎日、感覚を克明に日記に記し。
こっそりとペンで螺旋階段模様を描きました。



私の心にずっとあった本当の思い。


感じることを麻痺させてはいけない。
自分の中心から離れた自分じゃ、人間は破壊していく。
人間には、ちゃんとした温かさが必要。


こんな思いに蓋をした。


これまでの経験から、重い重い蓋をした。

そして、私自身も、この重い蓋の下の思いを嘲笑していた。



周りの者は、私の人生は奇異だと口を噤み 


「深く考えない方が楽だよ。」なんて口を揃えて言う。
「諦めて、暮らそう。そんなもんだよ、人生は。」なんて、薄く笑う。




自分は、もうこれ以上、誤魔化し切れなかった。
その違和感が・・・・苦しかったからだ。


そう言う人たちが、これからもこの先も、暗い薄い笑顔で生きていくだろうとも想像できた。

だから、自分は生きることを探りながらも、創ることにのせて、自分のメッセージを伝えて行きたいと思った。


私には「創作」がある。
生きていくことができる。


でも、この自分の唯一の世界においても、苦しみを誤魔化そうともした。


やがてこの迷いから、創れない自分となった。
あまりの虚無感から、希望を断とうと試みる自分が顔を覗かせた。


この行き詰まりの経験から、生きることと創ることとが、違っていてはいけない表現であるということに気がついた。


本気で嘘のない自分自身でないと、自分の持つ技術でさえも、やがては自分の掌の中で、腐っていくのであるということを、経験した。






もっと、生きようと思った。自分に向き合おうと思った。



そこからしか、創り続けることができないと。
人生も。表現も。そして、作品も。



どうか、自分を捨てようとしないで・・・・と。私は、もう諦めないでやるんだって・・・思った。


このメッセージを伝えるためには、自分の中にあるこの思いを確たるものにしなければならなかった。

内側の自分の思いを伝えるために必要なものは「自己信頼」だった。


それを、ブログで語っていたのが、朝子さんだった。

ストレートの「自分を愛するために。」と。私は目を疑った。


自分は本気でブログを書いていながらも、
「ブログごときに本気になるなよ。」と自分を嘲笑してもいたから。


その本気を、朝子さんはまさにやっていた。
そのまま、真っすぐ、自分のメッセージを書いていた。
確信的に、書いていた。

まずは、自分を徹底的に「愛すること」だと。



「愛する」意味すらもあやふやなこの世の中に向けて、臆せず「愛」を投入していた。



凄い偶然だと、思いながら初めは読んでいた。毎晩、夜中の仕事が終わってから、ほんの一瞬、ひとりになれる合間に読んでいた。







今は、分かる。


その時、微かにではあるが、決意して探していた「自分」がいたこと。

朝子さんが書いていることが「ほんとうのこと」だと、私は、自分のとても深い場所で知っていたのだと思う。


朝子さんのブログにコメントを残し、腹を決めた。

「過去の繰り返し」はしない。
「過去の痛み」もスルーしない。

この違和感を、自分のために突き止めるために、腹を決めた。




ブログのコメントは、正直なところ、不自由だった。コメントのやり取りを見る他人を意識して、スタイルとる自分では、今までと何も変わりやしない。

スタイルをとる自分の、そのハートを見つめる朝子さんの視点が痛かった。自分の無様な側面を、人に見られるのが、格好悪いという意識。

その意識が、まだ抜けきれなかったから、朝子さんの視点が痛く、怖かった。


やがて、朝子さんがホームページを立ち上げた。私はしばらくして、ポストメールに送った。


この人と直接繋がることが、怖いとも感じていた。自分は、この人の生身に触れて、現実的に、間違いなく動くだろう・・・・・と予感していた。


私には、勇気が必要だった。


実はその頃、私の手が動かなくなっていた。痛みどめの注射をしながら、手を違う「ふう」に使う二つの仕事をこなしていたのだ。お金のために感性を切り売りする自分のやりかたに、身体が、つまり手が、抵抗していたのだろう。

ぞんざいに荒れて、指の腱が、その重量に悲鳴をあげているのに、無理やりに働かせた手。ある日、突然戦慄が走った。


壊れる・・・。
また、壊れる・・・。


今度は、創作のための…わたしの命をつなぐ「手」だ。



朝子さんには、実生活の問題を克服するために助けを借りて、とにかく正直に「今の自分」を語った。その中で見えてきたのは、自分のほんとうの「声」だった。


手については、朝子さんにはさほどに話はしなかった。その時の私は、自分から「手が・・・」と切り出すのは、現状不満からの「わがまま」であると、我慢をしていたみたいだ。

自分が大切にしないといけないことは、本当に自分にとって大切なものを自ら守り、そのために、現実に相対すること・・・。

「感じたことを信じるのよ。大丈夫。すべては起こるべくして、起こっている。カナちゃんにとって、必要なことしか起こらないのよ。信じるのよ。」

と、朝子さんの声が、わたしの深いところに届けられる。


肉声。生身の力強さ。
そこに立つ、実在の安心感。


15冊のテキスト。

まずは、全巻、ぶっ通して、読み切った。
「読む」ことは得意だが、それが、読破したとは言い難い。私はここに書いてあるすべて言葉を全部、本当に全て、自分に叩き込みたかった。

完全に生身の女性から生まれたこの言葉たち。
そう思うと、今まで手にした、どんな権威的な本よりも、真剣に対峙したいという思いに駆られた。


身体は、日々、重くなっていった。
あとひとつの仕事が、苦しくなった。
家が、息苦しくなった。

自分を、抑え込んでいるから。
それが、日に日に、分かってくるから。

感じ取る自分を信頼できたとき、自分がどれだけ自分自身を殺した暮らしを自分に強いているかに、直面した。


私の名付けた神さまに、向き合う。
自分は、だらけている・・・・のではなかったのだ。
自分は、「そんなもんだよ、人生なんて。」という鳥かごに自分を閉じ込めているから・・・・こんなに苦しく、辛いのだということが、分かった。



感覚。
嫌がっているの。苦しんでいるの。

今までの繰り返しが、どちらの方向なのか、明確だ。



私のその時の手持ちの社会的「殻」は、自分史上相当なものだった。関東では憧れのと言われる場所に住み、そこの瀟洒な料理店のオーナーシェフの奥さんであり、編み物作家。


自分の中に目を向けずに、偽って手に入れたものたち。

「こんなもんさ、人生。」と生温かさに感覚をスルーするのが、私のこれまでのやり方だ。


何も、表面的には困っていないなら、このまま無感覚になってやり過ごす。無感覚になろうとした、かつての自分の地獄を思い返した。


思いぐせ。

不幸や不運の経験からくる・・・・未来の想定。

「どうせ、自分には邪魔が入る。」
「うまくいくわけないよ。」

そのパターンに自分を再び閉じ込める「苦しみ」。
・・・・・ぞっとした。



「もう嫌だ。」でいいんだ。


こんどこそ、本気で。
自分のために、自分以外は、全部、捨てる。


生き残るため。ちゃんと、生き残るため。




私は決めました。


たった、独りでやることです。
全部、自分で決めることです。



自分をとことん信頼できないと、決めることもできない。
常に、私の傍にいた15冊のテキストを眺めて、テキストではなく、感じ取れるようになった自分を確かに信頼できていました。

この感覚は、上手く表現できませんが、朝子さんの言葉を咀嚼しようと自分自身に向き合った経験がある人には、きっと分かる「確かな、人間の叡智として残された微細な感覚」です。


このテキストは、何も具体的に決めてくれません。
あなたはこうすれば上手くいく・・・なんて言う生易しいものでは、ありません。


何度も挫けそうになっても、テキストに書かれた言葉たちと、現実の朝子さんという人物の存在は、変わらすにここにある。

自分が、ここに辿りつくまでの旅のなかで、自分を諦めることを辞めたとき。


その決心のとき。

いつもそばにいてくれた。




5月の終わりのこと。
私が離婚をし、住んでいた近所のホテルの滞在中に、朝子さんの一回目の講演会がありました。


生身の朝子さんに、始めて会いました。

もう、何回も、何回も、親しんだ声の持ち主に、会いました。




世間的には、随分と悲惨な状況だったようですが、私はその時、既に自分の行動の方向に迷いは微塵も感じなくなっていました。


朝子さんに、会いたかった。

自分を誤魔化すことのない人間関係があることが、どれだけ自分の人生を歩むのに重要であるかを、思い知った数か月だった。


「人は、温かいよ。」

その何気ないような本当の言葉が、私に響いて残っていた。






自分の心が、信じたかったもの。
自分が、自分を信じられた時。


本当に、訪れた温もりだった。




朝子さんと会った日。

朝子さんとハグして、体で、分かった。



言葉と生身の存在の力。
自分が自分のエネルギーを、傾ける方向が、分かった。



自分で、鍵を回す勇気が、自分を確かに変えているのが、静かに分かった。


東京生まれの自分が、これまでの見てきた東京とは違う東京を見始めているのが、分かった。



隅田川の船の上。
私は、もうひとりではなかった。


ひとりを生きると決めた自分は、
全然、ひとりじゃなかった。



テキストを荷物に入れて、自分のするべきことをこなして行った。


病院の問題もあった。稀な薬を常用していたから。
急に、薬をやめることは、医学的も危険だった。

10年以上も世話になった主治医に「この自分をどうみられるか?」「何を言われるか?」「分かってもらいたい」

さまざまな軸のぶれが残っていることを、朝子さんに気付かせてもらった。



簡単なことだったのに、自分を縛りつけていたこと。
私は、「病名」までも、捨てられたのだ。


困っている薬の問題について、必要なアドバイスを頂ける医師との新たな出会いで解決を見ている。



そして、
朝子さんの講演会の後。


6月のはじめに神戸に移った。

親戚も住処も、現実に頼る友達も、もちろん仕事のツテも、病院のツテも、初めは何もなかった。


かぎ針と糸と、確かな自分、ひとつだった。
でも、ちっとも怖くなった。

鍵を回すことの方が、恐ろしかった。



扉を開いてしまったら、信頼できる自分がいる限り、世界は可能性に満ちていた。

現れる問題は、自分の学びのためにあるだけだった。
朝子さんのテキストの冒頭に書いてある通り。



行動して、感じて、染み込んで、確かになる・・・というだけ。






私の街は、神戸。
中心が、三宮であることすら、良く知らなかった。


街を 感じた。

歩き回った。

順序は、もちろん決まっていた。



先の不安に怯えるより、今を感じること。
自分のこころが、以前よりも呼吸が楽であること。
確かに感じたら、現実的行動に、迷いなく移れる。



そんな自分を信じながら、同時に不安も感じながら、神戸に居た。




朝子さんは、高知で自分の生活をしながら、毎日、メッセージを送り続けてくれている。

私は携帯でホームページを毎日読んでいる。

自分を確かめるためにも、自分のブログも書き続けた。



「生きています。」
「生きてください。」

と、思いを言葉にのせている。



住処を見つけ、契約するにも、「みなしご」状態である私には、相当なことだった。その問題を解決しながらも、仕事のことも考えながらも、


夜になると、

自分を置き去りにした行動をしていないかと、自分の心に尋ねる。

自分をないがしろにしていなかったかと、夜の寝床で自問する。


この街は、驚くほど、私を受け入れてくれた。
皆が、水知らずの私を、助けてくれた。
大切な関係性で繋がれる神戸の人たちにも出会えた。



一体、何故か?



一番は、自分な嘘を自分についていないからだと思う。
いい出会いは、いい波長の自分で存在するときに、ちゃんと用意されている。



・・・・ちゃんと、テキストに書いてある。



家を契約出来ることになったら、今度は高熱を出して歩けなくなり、救急車で運ばれたということもあった。

「再生テープの自分」ならば、きっと、脆くも絶望のきっかけくらいにはしているだろう。


私は、全く絶望しなかった。

この自分に訪れた状況が、自分に何を教えてくれているのか?電車の音に耳を澄ましながら、じっと心を見つめる。



するのは、それだけ。

身についた。





この先に、何が起ころうとも、大丈夫なんだ。








やっと引っ越しを済ませて一週間。
細やかな問題の中にも、次の自分に必要なものがある。




この文章を書こうという時間だって、可笑しいくらいなタイミングで用意されていた。

今の私に、必要だったの、しみじみ感じるのだ。





あなたも、どうか、感じながら生きてください。

自分の運命みたいな暗黒を、あなたのために、打破してください。



苦しみから逃れられずに、自分を、愛せない暮らしを続ける人のために、私は自分のことを書きました。


いい加減な場所に出せば、刺激のある三面記事か、もしくは傷の舐め合いみたいな病気離婚物語にさせられるでしょう。


だから、自分のブログには書きませんでした。

本当に必要としている人の目に触れる場所。
自分を愛するために、アクションを起こせる人に読んでもらいたかったからです。







私、真剣なの。

生きることに。

創ることに。

他人の評価を獲得するための創作じゃない。

人生じゃない。



でも、それこそが、真に 人を動かす。





私は、それを学んだのです。

真剣だけどね、陰気にシリアスじゃない。

自転車に乗って、ゴアイサツします。

お喋りだから、人と関わって生きることの本当の幸せを、作品に編み込みます。




それが、私のこれからの人生の仕事です。







affetuosi salut!
あいをこめて。






片山カナ






















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